個別領主の所領知行や年貢納入などに関する訴訟に対し、幕府がおこなっていた裁判――所務沙汰の室町期への展開については、南北朝期に将軍主催の場と管領主催の場という二つの訴訟機関が並立する体制が形成され、それが一五世紀半ばまで存続すると説明されてきた。しかし、鎌倉期と同様の性格をもつ訴訟機関がそのまま形成されたかどうか、質の違いが視野に入れられているとはいいがたく、検討の余地がある。本稿は、鎌倉期的な所務沙汰の制度運営のあり方が本当に室町期にも継承されたのかを検討し、室町幕府所務沙汰の特質を解明することを目的とする。 当該期の所務沙汰のあり方を示す史料を検討した結果、南北朝中期までの所務沙汰の審議・決裁は、引付・評定・仁政沙汰・御前沙汰など、制度的に設定され、日常的に式日運営がなされる所務沙汰機関においておこなわれていたが、南北朝末期にはこのような所務沙汰機関が急に姿を消し、所務沙汰の審議.決裁は奉行人が個別的に室町殿へ伺いを立てる形式の「個別伺」型に変化してゆくことが判明した。 そもそも、所務沙汰がこうした場でおこなわれていた背景には、社会的弱者の救済をするため、彼らの訴訟を含めた多くの訴訟をある種の開放性・公正性のもとで裁定していこうとする、鎌倉期的、徳政的な政治規範が存在していた。したがって、こうした場の廃絶はこうした政治規範の放棄をも意味する。南北朝末期の変質によって、室町幕府による訴訟対応は幕府法をも作り出さないような個別的なものとなり、所縁に左右される度合いが濃くなっていくのである。 こうした変化の理由は、一つには、従来の手続による訴訟裁定が内乱により困難になった、という点から説明できる。しかし、所領の回復命令を室町殿との個別的な関係による付与、つまり給恩に近いものとすることで、室町殿との関係を基軸とした人的秩序・所領秩序再構成への一助とする、という意味もあった。このような所務沙汰制度の変質は、南北朝末期の人的秩序・所領秩序の再編の動きに深い関わりを持つものであったと評価できる。 そうした動きの結果、京都の領主社会とその周辺においては、室町殿の意向が強く及びうる範囲が創出される。しかし、その一方で、以前の幕府が持っていた一定度の開放性を放棄し、訴訟に対処しようとする姿勢を失うことになるのである。今後は、こうした二つの側面をともに視野に入れつつ、室町幕府の位置づけを考えるべきであろう。